リスクなき堕落

昨日菅総理が、S&Pが日本国債長期格付けを引き下げたことについて、「そういうことに疎いので、コメントは改めてさせてほしい」と言ったそうです。

呆れてものが言えません。政策があらゆることに影響し、国民の生活を左右するということが、この総理にはまったくわかっていないのでしょう。格下げは国債長期金利を押し上げ、住宅ローンなどの長期の融資の金利を押し上げることになり、さらには国内の金融機関などが殆ど保有する国債の価値が下がり、結果として国内の金融機関に大きな損失を与えることになります。経済にとってこれほど重要なことに「そういうことに疎い」人間が総理大臣では、国民はたまったものではありません。素人以下です。やはり菅直人という男は、地位に固執しているだけの俗にいう「バカと煙は高いところが好き」という程度の政治家なのでしょう。いわゆる欲に目がくらんでいるボケ老人ですかね。

今の日本にとって最大のリスクは、民主党政権でしょう。

そもそも日本人は戦後のアメリカの占領政策の効果により、リスクが認識できなくなっているのではないでしょうか。
戦後いまだに金科玉条のようにありがたがっているアメリカから巧妙に押し付けられた日本国憲法前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とあります。つまり憲法は国民が豊かに安全に暮らすことより、日本から戦争という政治手法の1つを奪うことのためにあるというのです。
さらには「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とあり、福利つまり利益は国民が受けるとは書いてありますが、そのための義務とか負担あってはじめて権力の選定ができるとは書いてありません。民主党政権誕生の時に、バラマキに共鳴して狂喜したおろかな大衆を思い起こします。
そして極めつけは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。つまりは回りはみんな良い人だから、玄関に扉もかけなくていいし、泥棒や強盗、人殺しもいないと言っているのです。

これによって国家痴呆症になってしまったのです。国家が病気になれば、当然のように国民も病気になります。そして「失われた10年」「リーマンショック」と続く衝撃に、為す術もなく、見つめ続けているのが今の日本人です。最近 アフリカや中東で反政府暴動がおこり、政権打倒のデモが頻発しています。しかし日本人は、尖閣で辱められ経済が低迷するなかで消費増税・年金需給年齢の引き上げが言われだしても、政府打倒とはなりません。これは日本人が穏やかで文化的なためではなく、危機やリスクを認識できなくなっているためなのです。

20年ほど前に、井出孫六の峠に関する評論を読んだことがあります。たしかそれには、目時期に日本各地で鉄道建設がおこなわれ、それまで幹線道路の役割を果たしていた峠が、袋小路のように人も物も通わない寂れた場所になり、それまでの中継地としての賑わいから、僻地として寂れていったそうです。その結果、峠では桑の栽培と養蚕事業が増えましたが、その養蚕の相場の蘭高下が激しく、借金を抱える農家が増えて、その農家の娘さんたちが身売りをさせられ遊郭に身を沈めていく者が多かったという話だったと思います。

この本を読んだときに、私は明治の人たちの慎ましい生活にも、絶えずリスクがあったのだと思いました。
満州への移民も、侵略だなんだと言いがかりをつけられてはいますが、当時の日本人は大地に希望を抱き且つリスクも覚悟して、農地の開拓に羽ばたいていったのでしょう。
また南洋の島々にも多くの日本人が、サトウキビ栽培・製糖事業・魚介の缶詰製造に、リスクを覚悟して乗り出していったのです。
どんな時代でも飢饉や戦禍のリスクは常にあったでしょうし、その覚悟の中で生きてきました。戦後のたかだか30、40年ほどが経済成長と安保条約によって、リスクが無いと錯覚していただけではないでしょうか。それを栄光の時代と思い込んで、懐かしんでいるのが、中高年世代ではないでしょうか。
バブル崩壊後に社会に出て行った若い人たちは、経済がどんどん成長してゆく思い出がありません。就職が厳しいときしかしりません。その若人たちの未来を、中高年がリスクをおそれて先食いしているのです。
日本の青年たちはすでに中高年のエゴに辟易して、中高年を見捨てているのではないでしょうか。若い世代が新規事業やM&Aに積極的で、既成の社会秩序を無視していることやら、中高年が古いとか封建的と言って否定し続けてきた日本文化を積極的に取り入れようとしています。これは団塊世代などを中心とした、リスクから逃げ続け独善だけで行きてゆこうとする中高年が、レッドカードを突きつけられているのです。