ズレた頭

鳩山総理の沖縄での発言は、当然予想されてことではありますが、あまりにも軽率かつ無責任な発言であったために、沖縄の地元だけでなく国民全体があきれ返っています。

とくに総理の海兵隊の抑止力について「海兵隊の抑止力は必ずしも沖縄に存在しなければならない理由にはならないと思っていた。しかし学べば学ぶほど、沖縄の米軍の存在全体の中での海兵隊の役割を考えたとき、すべて連携している。その中で抑止力が維持できるという思いに至った。」という発言には、日本の総理としての自覚がまったく無いといえます。今回の普天間問題や核の持込問題を見ていると、いったい民主党政権は日本の防衛をどのような方向に持っていこうとしているのかわかりません。支離滅裂な暴走運転としか考えられません。

中国とアメリカが国交交渉を行う際に、周恩来キッシンジャーの間で日本のことで特に議論されたことは、日本の再軍備強化についてでありました。キッシンジャーは日米同盟があるかぎり、日本に再び軍備を強化させないことを約束したそうです。いわゆる日米安全保障が瓶の蓋となって、日本の軍国主義化を抑えるという瓶の蓋論です。
日本が軍国主義化をすれば、アジアの安定が覆るというものですが、今はこの日米安全保障体制が北朝鮮や中国を牽制し、極東アジアはある程度安定しています。
鳩山政権の政策はこの安定を破壊する方向に走っているのであり、台湾などは親中の馬英九政権であるにも関わらず、北京を射程におさめた巡航ミサイルの配備を検討しています。

他方では日本国内で、団塊の世代と言われる安保世代を中心に、日本が軍備を持たなければ世界は平和になるという妄想があるようです。おそらく鳩山総理の頭の中にも、僅かかもしれませんがあったのでしょう。

日本は近代史の中で、幕末から今日まで軍事的に安定した環境にいたことはありません。

日本が軍備を持たずに、外交交渉だけで国際社会を生き抜けるという妄想は、大東亜戦争の敗北により、ある意味で原理主義的な宗教観のようになってきました。しかし複雑なことにその原理主義的非軍事論は、現実的であるという錯誤と、非現実的な理想によって裏打ちされています。

作家の司馬遼太郎なども、自身の個人的経験がトラウマとなってか、そのように考えていたと思います。今流行の坂本竜馬を題材とした「竜馬が行く」のなかで

「 宗教的攘夷論者は、桜田門外で井伊大老を殺すなど、維新のエネルギーにはなったが、維新政権はついにかれらの手ににぎることはできなかった。

 しかしその狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺たる荒廃におとし入れた。

 余談から余談につづくが、大東亜戦争は世界史最大の怪事件であろう。常識で考えても敗北とわかっているこの戦さを、なぜ陸軍軍閥はおこしたか。それは、未開、盲信、土臭のつよいこの宗教的攘夷思想が、維新の指導的志士にはねのけられたため、昭和になって無智な軍人の頭脳のなかで息をふくかえし、それがおどろくべきことに革命思想の皮をかぶって軍部を動かし、ついに数百万の国民を死に追いやった。

 昭和の政治史は、幕末史よりもはるかに愚劣で、蒙昧であったといえる。 」

 と書いています。しかしこの時代は欧米各国は、後半期とはいえアジア・中南米を中心に植民地からの収奪が、それぞれの国の経済の一部を成していました。そこに世界大恐慌が訪れ、国際的な経済地図が塗り替えられようとしていたのです。投機市場の暴落で、養蚕などに頼っていた農村の惨状は、眼に余るものがありました。人身売買などが盛んだったのもこの時期です。失業者が溢れ、満州への移殖が推進されたのもこの時期です。

 このような中で日本は、追い詰められていったとしかいいようがありません。

 確かに戦術的な拙さはありましたが、最初から勝てない戦争でしかなかったと言うのは、暴論でしょう。もしミッドウェイで負けなかったらとか、戦線を拡大しなかったらという想定も、今日はおこなわれることが少ないように思います。

 国際関係とは、経済と軍事が安定しているという信頼関係からしか成り立ちません。今日のような経済が不安定で、北朝鮮や中国のような軍事拡大を目指している隣国に囲まれている我が国は、国際関係が安定しているとはいえません。この認識が政権与党には無いのです。

 戦争は極力避けてゆかなければなりませんが、もし戦争に巻き込まれたときにはどうするかという想定も、国家としてはしておかなければならないことです。司馬氏のように、戦争は避けられたはずであるという前提のみのとらわれ、陸軍軍閥と軍部の思想に責任を転嫁し、所謂 抑止力としての軍事と外交力を見なければ、それは返って危険な平和主義でしかありません。

 鳩山総理が「学べば学ぶほど」というのは、固定概念に縛られて、現実を見ていなかったと自白しているのです。

 総理としての必要不可欠の資質が欠落していることを、白日の下に曝した以上、その職にとどまるべきではありません。